『解離性障害』という場所にいた、

かつての幼なじみや、知人たちを
“知らない誰か” だと思わされてきた、

自分の “知らない人に繋がる親近者” だと
思わなくなる不思議な物語は、狂言者の

世界観だ。私の知り合いは 『解離』した
人々といた、『解離性障害』により生息、
生存した人々だった。


かつての幼なじみは、かつての知人は?

私が知る人々に繋がり、私に繋がらない
生活をし、私の知能やスキルや環境に

明らかに “似ていない” イメージにいて…。


明らかに私のいない世界に存在している
組織や、世相にいて。私の身元に繋がる
誰か、に成り済ましていた!



『精神医学』には、

必ず繋がる心理学の存在が、何故かは
分からないが。罹患者は『心理学』には
繋がりにくい言動や行動というのがある。


例えば、『理数系』と『文学系』がいて
『医学者』を、世間一般には『理数系』と
捉えがちな中にあって、医学という場所は

『外科』を体育会系とし、『内科』を
文学系としたイメージがあるらしい!?


確かに、『内科学』ではカルテへの記入、
記載が、作文が上手くないと『罹患者』の
特徴が、分かりにくい。というイメージ!


カルテに『何を記載するか』と考えると、
開業医なら容易く(いつもの医療があり)

『昨日か、それ以前に繋がる内容』とした
患者と医者との関係や、肉体に精通した
連結した(ドラマではなく)機微がある…。


内科医師には、『かつての既往症』や
潜在してきた『持病』や、幼年期に罹患し
発症した感染症や、体質についての情報や
知識があり、“かかりつけ医” である場合に

『あなたのあなたらしさ』を訳知りに話す
昔なじみのような語らいや、詮索がある!?


それそのものを、『昨日の話』や
『いつから、どんな風だったか?』を
設問とした、問診に頼ることにはなる。


しかし、精神疾患の罹患者には『狂言』や
『作り話』や、『誰かのふり』があり、

病気や、『症状について』の説明に偽装や
芝居や、インチキやデタラメがあるので(笑)

ややもすれば、『からかい』や『仮病』が
医師に対してある。それを分からないと?


『解離している罹患者』からの猿芝居で、
“がんになった” 嘘や、治療したふりが出て
来て。Aくんには無い、Bくんにはある病気が

『デタラメ』になると、治さないままにいて
『治療したふり』や、Cくんの罹患に発生し


“助からないかも知れない誰か” のふりをして、
Cくんは死んだから、Cくんのふりをする
としたドラマに発展してしまう、Aくんが

“ほんとの病気” を放置した可能性まで出て
来て、しまいには『治さないふり』がある。



“繋がりがあるケース” では、かかりつけ医師
だから、嘘をつかないし話してあるからと
演技もしないのに、知らない病院に行くと

『病気になってないふり』をしてる精神病に
なってしまう人たちがいて、知らない先生に

『今まで病気になってない』アピールをし
『かかるから、治すから見捨てないで!』
的なアプローチをして、治癒してないのに


『かかりつけに通ってた』ふりをしないで、
“見逃された病気がある” 患者に成り済まし、

違う病気で 『命拾いをした』アピールに
病院にかかる精神障害者もいる、という。


とある精神障害者は、精神病院に通ってて
がんのふりをし、開業医にかかりながら
向精神薬をもらい、仕事に通ってるふり。

精神病院を、仕事だとした演技をしつつ
内科では、開業医には向精神薬をもらい
精神病院通いを、仕事に通ってることに
してる、二重どりな精神障害者がいる。


つまり、『自己免疫』が『精神障害者』を
演じて、内科の『かかりつけ医』が何故か
向精神薬を出すのに、仕事に行けないのに?

仕事先に行くふりし、精神病院通いだとした
狂言があるサイコパスでは、二重に向精神薬
というものが処方されてる。日常茶飯事ね。


そんな精神病患者があちこちから集まり、
溢れかえり、賑わう市街地にいて狂わない、

静観出来ない、訳知りに成らざるをえない
私が、精神障害者にからかわれて来ている
という事実は、医学者が多重人格者なのか?


医学者が、『演技性パーソナリティ障害』で
医師に見せないのか、精神障害者が医学者に
成り済ましたのか。エホバと共産党劇場で、

『狂いました私たち』という日常の有り様が
見え隠れする。『嘘をつきました』とか?

『バカやってます』というアピールがある。


それは、てんこ盛りな『過剰な煽られ方』や
『過剰に困らせる役』を率先している人々の
『アングラぶった』アピールや、幸せしか
知らない、嘘や狂言しかやらない生活習慣。


私が出会った、私が知った “発達障害者” や
“誰かのふりをする” 人々や、犯罪者ぶりや
障害を理由に “当たり屋” をしたり、また

“ハラスメント” をしたり、“ゆすり” をしたり
私に似ていない、私に繋がりがない “悪い人”
であるアピールに、SNSやブログに対して
恐喝や、嫌がらせをやる精神病ぶりな男。


犯罪をしてきて、精神疾患を理由に
刑罰を受けずに、悪さばかりをしてきた
当たり屋や、精神疾患丸出しな詮索屋とか。


彼らの、彼女たちの『人間らしくない姿』
とは、人道や道徳や倫理からは繋がりが
ないシチュエーションや、被害者に恐喝
する、善人にハラスメントをする役には

エホバや共産党がいる、という誇示があった。


社会常識や、分別や秩序を知らない知能で
“被害者を分からない” というふりがある!?

ハラスメントされた、つきまとわれてきた、
詮索された、ストーカーされた私に、犯人の
ふりが、恐喝や弾圧やつきまといをしていた。


彼らの態度や素行から、私に嫌われること
を目的とした、袖すりあい嫌われてる芝居
というのがあり、


私の行く先や、外出に際して参加をしてる、
配置され、働くふりやエキストラぶる人々。

嫌われたい、感じ悪い存在となりたい人々の
アピールがある。エキストラやロケごっこは、
善人でない知能の低い、当たり屋や宗教信者
ぶった正義が無い創価や共産党ぶりの男女!


病院にいるふり、精神病院に入るような
知能の誇示がある。仲間がインチキを言う、
家族が犯罪者ぶる家庭で、仮名になる芝居。

玄関に犯罪者が暮らしてきたふりは、偽名。
前科があるふりは、本名を言わなくする顔。

『演技性パーソナリティ障害者』のふり!


地域で、支持政党で、信仰宗教で
罪を拾ってる、悪事をごまかしてる誇示。

正しいことを考えてないアピールをして、
市街地で、仲間を増やしてきた誇示がある。

彼らは、『本名でなければ悪い人』になれる、
と思っているのか。芝居をする。嘘を話す癖、
インチキに繋がり、知らない話をする病気。


そんな彼らを分かりやすくした、識る
場所で、日常は『ジェットコースター』
さながらに、怖く辛い環境に暮らしている。


創価学会関連施設があった地域や、市街地
にいて精神疾患を理由にした障害を理由に、
恐喝や当たり屋をし

ハラスメントや嫌がらせに高じる顔は、
創価学会の犯罪者グループや知能障害や
発達障害を利用した恐喝グループの日常
生活の誇示に見える。親族のふりである。


そんな精神異常者たちの詮索ぐせや
当たり屋ぐせは、精神医学が顕著にし
明らかに、犯人を分かりやすくしてる。




✒️杼絽












✒️著者について

ー柴山 雅俊ー
1953年愛知県生まれ。

東京大学医学部卒業。医学博士。
虎の門病院精神科医長,東京大学医学部精神神経科講師を経て,東京女子大学現代教養学部人間科学科心理学専攻教授。専門は精神病理学。
著書 解離性障害─「うしろに誰かいる」の精神病理(ちくま新書,2007),専門医のための精神科臨床リュミエール20巻解離性障害(共著,中山書店,2009),専門医のための精神科臨床リュミエール3巻精神科診療における説明とその根拠(共著,中山書店,2009),今日の治療指針2009年版─私はこう治療している(共著,医学書院,2009)など。



✒️『説明』

ー内容紹介ー

解離性障害の診断は実際には簡単ではない。従来、解離の病態と報告されてきたのは解離性健忘や解離性遁走、多重人格などであったが、これらの「典型的」な解離性障害の診断は比較的容易である。実際に解離性障害で多いのは、「非典型的」な解離性障害であり、この病態を診断することはなかなか大変なのである。多くの解離症例がたんにパニック障害などの不安障害や気分障害、パーソナリティ障害と診断されているのも事実である。近年では気分障害の範囲が拡大し、多くの解離性障害が気分障害と診断されている可能性がある。治療者によって解離的側面に注目されないならば、精神療法的接近は切り離されがちとなり、もっぱら薬物治療が主となってしまう。危惧されるのは、これらのケースがパーソナリティ障害や難治性の気分障害とされ、回復への道筋が閉ざされてしまう場合である。幻覚などがみられれば安易に統合失調症と誤診されてしまうこともしばしばである。早期に誤って統合失調症の告知を受けてしまえば、その後に訂正されることは少なくなる。 治療者が解離の症候学について疎い場合、解離性障害を統合失調症と誤診する可能性はきわめて高くなるだろう。もちろん一見、解離性障害のように見えても実際には統合失調症であることもある。解離の症候学と統合失調症の症候学の双方に通暁していなければ、ひいてはあらゆる精神疾患の症候学について詳しくなければ、そもそも正しく診断することが困難であるのは当然である。実際には、統合失調症の症候学の教育を受ける機会が比較的多いのに対して、解離の症候学についてはそれを知る機会が少ないのが現状であろう。診断する者は自分がよく知っている疾患を診断する傾向がある。知識や経験に乏しい疾患の診断をすることは概して困難なのである。解離性障害であるか否かについて正しい判断をするためにも、解離の症候学や病態への理解はさらに普及されなくてはならないであろう。このことが本書を書いた第一の目的である。これまでは、医療者の観察者的視点に対して、患者の当事者的視点すなわち主観的体験についてはあまり注目されてこなかったように思う。症状や体験について訊くことが、治療的態度に抵触しないで、むしろ安心感を与えるような症候学と病態構造を私は求めてきた。私はこれらの症候を多くの患者から詳しく教わったが、統合失調症でしばしば指摘されるような、症候を面接の話題に取り上げることによって病像の悪化がみられるということはほとんどなかった。一見悪化することがあるように見えるのは症候について訊くことによるのではなく、患者に対するある種のこちら側の偏った眼差しが影響を及ぼすことによると感じられたこともしばしばであった。解離の病態は精神病とは異なり、主観的体験がわれわれのそれとの連続性を保っていることが多い。それでも患者が語る内容は私からすると驚くようなものだった。(「はじめに」より)

内容(「BOOK」データベースより)